みなさん、こんにちは。~学校では教えてくれない戦国時代のホント~です。
前回は「北条氏5代」について話していきました。
今回は話の舞台を西国に移して、大内氏について話していきたいと思います。
戦国時代の幕開けは応仁の乱、その応仁の乱の西軍で事実上の総大将となったのが第14代当主の大内政弘です。彼は文化に造詣が深く、周防国(現在の山口県)を小京都と呼ばれる礎を築いたとされています。その後、大内氏は第17代まで続いていきます。
将軍を補佐し、上京を遂げる:第15代、大内義興
大内義興は1494年(明応3年)に家督を継ぎました。先代の政弘のころから北九州の少弐氏、大友氏と敵対関係になっていましたが、義興は武威を発揮し、豊前(現在の福岡県と大分県の一部)と筑前(現在の福岡県)を手中に収めます。さらに、長門(現在の山口県)、石見(現在の鳥取県)の一部、安芸(現在の広島県)の一部まで勢力を拡大します。
そんな中、時の将軍である足利義稙が落ちぶれて周防国までやってきます。(この頃の足利将軍はよく京を追われます)そして、後世の信長よろしく、京への大義名分を手に入れた義興は上京を果たし、長い間在京することになります。晩年は尼子氏との対等と敵対によって戦乱の中で没しますが、政弘・義興と2代に渡って在京をしたり、明との盛んな交易によって、周防国は西の京都と呼ばれるほどに発展していきました。
大内氏の最盛期を築く:第16代、大内義隆
大内氏の中で一番有名なのがこの大内義隆だと思います。1528年(享禄元年)に家督を継いだ義隆は九州への侵攻をしていきます。一時は肥前国(現在の佐賀県と長崎県)まで勢力を伸ばしますが、龍造寺家兼の反攻にあって大敗してしまいます。のちに九州を三分する勢力となる龍造寺家もこの頃は少弐氏の家臣というのが興味深いですね。
さらに、先代・義興の因縁の相手である尼子氏との戦いにも動きがありました。尼子氏が安芸国の吉田郡山城を攻めたのです。この時の城主はのちの中国地方の大大名、毛利元就でした。戦国時代最高の智将とも言われる元就も若かったとはいえ、大内氏に臣従していたと考えると大内氏の強大さが分かりますね。この戦いは後詰を出した大内・毛利連合軍の勝利に終わります。それに乗じた義隆は尼子氏攻略を進めますが、1542年(天文11年)月山富田城の戦いにて大敗し、寵愛していた養嗣子の大内晴持が戦死しています。そして義隆は一気に落ちぶれていきます。なんだか三好長慶のルートと似ていますね。気になる方は、こちらの記事をご一読ください。
すっかり落ちぶれた義隆は政権の第一線から退き、学芸や茶会に没頭する公家さながらの生活を送り始め、文治派の相良武任らを重用するようになりました。この大内義隆の行動に、大きな不満を抱いたのが陶隆房などの武断派です。(文治派と武断派が対立するのは後の石田三成と福島正則の対立と同じですね。世の常です。)そして陶隆房がとんでもないことを行います。それは、義隆を自害に追い込むクーデターを起こしたことです。大寧寺の変と呼ばれる事件が勃発しました。これにより実質大内氏は滅亡してしまいます。
大内氏というより大友氏:第17代、大内義長
大寧寺の変のあとの話をしましょう。大内政権を乗っ取った陶隆房ですが、裏切り者にはなかなか統治ができません。国人衆の反発にあってしまいます。そして、臣従していた智将・毛利元就が牙を剥きます。詳細はまた別の記事でお話しできればと思うので端的に。日本三大奇襲の一つ厳島の戦いが勃発します。陶軍の兵力が20,000に対して、毛利軍が4,000と圧倒的に不利な状況でありながら、毛利軍が勝利を収めました。前回紹介した「河越野戦」と有名な「桶狭間の戦い」と合わせて三大奇襲と呼ばれます。
さてこの大内義長、家督自体は1552年(天文21年)に次ぎましたが、もともとは大友晴英と名乗ってました。そうです、純粋な大内氏ではなく、九州の大友氏にいた血筋の入った子を政権確立のために無理やり当主として擁立したのです。厳島の戦いで勝利した毛利氏はそのままの勢いで進軍し、義長は兄の大友義鎮(後の宗麟)に助けを求めますが、義鎮は動かず、元就によって自害に追い込まれてしまいました。
山口を西の京都と呼ばれるまで発展させ、一時は京都から山口に遷都させる計画まででるほど栄華を誇った大内氏ですが、盛者必衰の理よろしく、最後は滅ばされてしまいました。このように現在に残らずに消えていた大大名はたくさん存在します。このシリーズではそういった大名家にも光を当てていこうと思っています。
次回は大内氏とバチバチに争った尼子氏について話していきたいなと思います。元就と同じで、中国の三大謀将の一人に数えられてるあの武将が主役です。この記事を読んで面白い!と思ってくださいましたら次回の記事も読んでもらえると嬉しいです。
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