北条早雲と三好長慶

みなさん、こんにちは。~学校では教えてくれない戦国時代のホント~です。
前回は戦国時代はなぜ起こったのかについて話していきました。

今回は北条早雲と三好長慶という二人の人物にスポットを当てて、話していきたいと思います。

日本初の戦国大名、北条早雲

前回の記事でも少し触れましたが、戦国大名とは主に3つのケースからなっています。

  1. 元々大名(守護)であった。【武田家、大友家など】
  2. 守護代として下剋上を果たした。【織田家、三好家など】
  3. 国人衆から下剋上を果たした。【毛利家、北条家など】

そして日本で初めて下剋上を果たして戦国大名になったのが、北条家、そして北条早雲なのです。
ちなみに、鎌倉時代に執権として権力を握っていた北条家とはまったく異なるので、北条氏と区別されることもあります。

北条早雲は北条氏を名乗らなかった?

ここまで北条だと言っていましたが、早雲は北条を名乗っていません。息子の北条氏綱が名乗り始めました。それまでは伊勢氏を名乗っていました。さらに早雲も出家してからの名前なので「伊勢新九郎盛時」と名乗っていたのが正確な歴史です。
※戦国時代には忌み名というものや、名を受け継ぐなどがあったので、名前が頻繁に変わってました。

戦国大名への足掛かりとなった、伊豆討ち入り

北条早雲は今川氏(駿河の大大名。織田信長に桶狭間で敗れた家です)の家臣として駿河国(現在の静岡県の中部)の興国寺城の城主でした。そんな折に伊豆国(駿河国の隣、静岡県の東部)で堀越公方・足利政知の後継者争いが勃発します。

それに加担した北条早雲は「城の兵を寝返らせる」という当時では斬新な戦法をとって勝利しました。これにより、一城主から一国の主となり、国人衆から大名(戦国大名)へと変貌を遂げます。これがなぜこんなにも取り沙汰されるかというと、当時は大名対大名が当たり前でしたが、大名でもない人物が華麗に国を奪取したということがまさに下剋上。日本で初めて戦国大名になったと言われるゆえんです。

勢力を拡大、堅城小田原城を手に入れる

その後、隣国の相模国(現在の神奈川県)で扇谷上杉氏と山内上杉氏の争いが勃発。これを見逃す早雲ではありません。
元々味方をしていた、扇谷上杉氏が衰退し始めたのをいいことに、寝返って小田原城を奇襲。見事小田原城を手に入れます。(後北条氏と言えば小田原城ですね。)

その後は扇谷上杉氏と山内上杉氏が手を結び、有名な河越夜戦などにつながっていくのですが、これはまた次の機会に。北条氏は早雲の死後も勢力を拡大し、相模国、武蔵国(現在の東京都)まで勢力を拡大します。北条氏5代の礎を築いた北条早雲は、まさに英雄傑物ですね。

日本の副王とまで呼ばれた、三好長慶

前回の記事でも紹介しましたが、戦国時代の幕開けは室町時代後期の応仁の乱。その勝者の管領・細川氏に仕えていたのが、三好長慶を始めとする三好家です。

三好長慶の凄いところは何といっても政治力のバランス感覚です。当時の畿内には、将軍・管領・宗教・朝廷と権力を持つ勢力が跋扈していて、水面下でも表面上でもバッチバッチに争っていました。

その中で三好家単体で見ると力は持っていませんが、臣従しながら出世をし、一時蹴落とした相手も再度許して協力関係を築いたりと、絶妙なバランス感覚で世間を渡っていきます。

三好長慶は堺を抑え、莫大な資金と、優秀な一門に恵まれ、ついに将軍を追放し、三好政権を樹立します(※追放なので、幕府を滅ぼしていません)この功績から、日本の副王と呼ばれ、現在では一番最初の天下人とも呼ばれています。

軍事・政治だけではない、長慶の教養

三好長慶は、和歌や連歌をたしなんだ先駆けの戦国武将とも呼ばれています。当時は貴族の遊びでしかなかったので武士がそのような歌を詠むことはありませんでした。

政治において付き合いもあったり、抜群なバランス感覚を持っていた三好長慶ならではの能力だと思います。織田信長を天才だとするのならば、三好長慶は秀才なのかなと個人的に思います。

一門の早世と、三好家の没落

驕れる者も久しからず、盛者必衰の世の中では抜群の勢力を誇った三好長慶でさえも終焉を迎えます。悲劇は三好元長の4男・十河一存の急死から始まります。その後、次男・三好実休が、さらに三好長慶唯一の嗣子だった三好義興が病によって22歳で早世。
一門の力で支えられていた三好政権への打撃はすさまじく、三好長慶自身も悲嘆はすさまじく、この頃から心身に異常をきたし始めたとされています。

病床に臥せ、政務を離れがちになった三好長慶は、若い頃の思慮深さを失い、分別がつかなくなっていました。そこに目を付けたのが乱世の梟雄・松永久秀です。
松永久秀は、安宅冬康が謀反を企てていると、嘘の報告を三好長慶に送ります。これにより三好長慶は、安宅冬康を呼び寄せ、自らの手で粛清してしまうのです。
「足利季世記」によれば、安宅冬康の無実を知った三好長慶は後悔の念に苛まれ、さらに病状を悪化させたとあります。そして約2ヵ月後、失意のまま43歳で波乱の生涯を閉じたのです。

今回は「北条早雲」と「三好長慶」という二人の人物について紹介していきました。
次回はせっかく話がでたので、後北条家の5代当主について話していきたいなと思います。

松永久秀も出てきたので、戦国の三大梟雄(斎藤道三・宇喜多直家・松永久秀)についても面白いなぁと思ったのでまたの機会に話したいと思います。この記事を読んで面白い!と思ってくださいましたら次回の記事も読んでもらえると嬉しいです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました