関東の覇者、北条氏5代を紹介

みなさん、こんにちは。~学校では教えてくれない戦国時代のホント~です。
前回は「北条早雲と三好長慶」について話していきました。

今回はその北条氏をさらに掘り下げていき、5代に渡って受け継がれた北条氏(正確には後北条氏)について話していきたいと思います。

日本初の戦国武将:1代目、北条早雲

前回学んだ北条早雲、後北条氏の初代です。
詳しい説明は割愛しますが、一介の国人衆から戦国大名へと下剋上を果たした早雲は、伊豆国(現在の静岡県東部)から、相模国(現在の神奈川県)へと勢力を拡大し、堅城小田原城を手中に収めました。そして死ぬ直前の1518年(永正十五年)に家督を2代目となる氏綱に譲りました。

北条家の礎を築いた将:2代目、北条氏綱

32歳で家督を継いだ、氏綱。偉大な1代目と有名な3代目に挟まれていますが、北条氏繁栄を築いたのは氏綱の統治があってからこそです。そもそも北条氏を名乗ったのも2代目の氏綱からで、早雲は没するまで伊勢氏を名乗っていました。

勢力圏のさらなる拡大

氏綱は北条氏の支配域を広げた功績があります。早雲のときにも出てきた扇谷上杉氏。この重臣で江戸城主であった太田資高を懐柔し寝返らせます。そして扇谷上杉氏の勢力圏であった武蔵国(現在の東京都と埼玉県の一部)を両国とし、伊豆・相模・武蔵の三か国を抑える大名となります。

さらにこれだけでは終わりません。今川氏と争って駿河国(現在の静岡県中部)、里見氏と争って下総国(現在の千葉県)へと勢力拡大をしていきます。この争いの火種から3代目氏康の時にある事件が起きてしまうのですが、次節で紹介します。

勝って兜の緒を締めよ、氏綱の遺訓

北条氏綱は1541年7月19日、55歳にてその生涯を終えます。
その際に3代目を継ぐであろう氏綱に対して5箇条から成る「北条氏綱公御書置」という政治ノウハウを伝える遺訓を残しています。有名な「勝って兜の緒を締めよ」という慣用句も残されています。

  1. 大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。義に違えて国を切り取っても後世の恥辱を受けるだろう。義理を重んじよ。
  2. 侍から農民にいたるまで、全てを慈しめ。捨てるような人など存在しない。
  3. 驕らずへつらうな。身の程をわきまえよ。分相応の振る舞いをすべし。
  4. 倹約を心がけること。
  5. いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意せよ。勝って兜の緒を締めよ。

内政と外交において優れていたとされる3代目氏康は氏綱のこの遺訓があってこそだったのかもしれませんね。

北条家最盛期を招いた相模の獅子:3代目、北条氏康

1538年(天文7年)に家督を継いだ氏康ですが、1545年(天文15年)にいきなり存亡の危機を迎えます。氏綱が争っていた今川氏が扇動し(諸説あり)、早雲が領地を奪った扇谷上杉氏と山内上杉氏に攻められてしまいます。いわゆる河越夜戦の勃発です。小田原城を囲む勢力は8万、対する氏康の勢力は8千。日本三大奇襲ともいわれるこの合戦を氏康はどのように乗り切ったのでしょうか。

氏康の名を関東に轟かせた河越夜戦

さて、正攻法では勝ち目がないと考えた北条氏康は、偽の降伏状を送り、油断したところに奇襲をかけるという戦法を思いつきます。早雲譲りの智謀が冴えわたりますね。
さらに氏康は兵士たちに甲冑をまとわずに戦わせるという、信じられない命令を出しました。これは闇夜に紛れ、音を消し去り、気配を絶つためだったとされています。さらに同士討ちのリスクも削減することができますね。北条軍の兵士たちが夜の闇からいきなりあらわれると、敵軍は大混乱に陥り、総崩れしたのです。

そして返す刀で上野国(現在の群馬県)まで勢力を拡大し、関東一帯を手中にした北条氏康は、その勇猛さから「相模の獅子」と称えられるようになりました。

外構と内政に優れていた氏康

氏康が特に優れていたとされるのが、外交と内政です。
外構でいうと、甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄、駿河国の今川義元と同盟を結ぶことに成功します。(甲相駿三国同盟)これにより、信玄は対・上杉、義元は対・織田、氏康は関東平定へと戦力を集中させることができたのです。

内政でいうと有名な施策の一つに「目安箱の設置」があげられます。徳川8代将軍・吉宗が行った政策としても有名ですが、それよりも前に氏康が実行しています。
「目安箱」とは、領民が要求や不満などを書いた紙を入れるための箱のことで、領民の意見を吸い上げる役割を持っています。北条氏康は目安箱で募った領民の声に耳を傾けることにより、民主的な政治を行なったということですね。

そして凄いことに北条家の5代の100年の統治の中で一揆が一回も起きなかったのは、氏康、ひいては北条家の善政があってこそだと考えられています。

愚将か?名君か?:4代目、北条氏政

1559年(永禄2年)に家督を継いだ氏政は非常に評価が分かれる武将です。歴代当主の中で最も大きい版図を築き上げた一方、小田原征伐にあい北条氏を滅ぼした原因ともされています。

存命中に上杉謙信、武田信玄の両将軍から攻められながらも領地を守り抜き、さらに里見氏などを滅ぼし領土を拡大するなど軍事的、戦略的には優れていた一方で、「相越同盟」や「相甲同盟」など都度に同盟相手を変える外交戦略や、関白の豊臣秀吉から上洛を無視し続けたことなど、外交・内政面には劣る武将だったのかなと思います。

氏政の傀儡?:5代目、北条氏直

1580年(天正8年)に家督を継いだ氏直は、後北条氏最後の大名となりました。ただ、氏康のころから続く二頭体制(家督を継いだ将軍と継がせた将軍の二人で政治を取り仕切る)により、影響力は氏政のほうがあったとされるがためか、いまいち影の薄い武将ではあります。

しかし、北条氏滅亡の危機となった小田原征伐の前に、強硬派の氏政とは異なり、叔父の「北条氏規」を上洛させるなど柔軟な対応を見せています。さらに、小田原征伐が起きる前から、豊臣秀吉との戦いは避けられないと見て、武器や兵糧を蓄えており、開戦前には領内の民間人にも武装させて50,000人余りを動員するなど先見の明もあったとされています。
歴史にifはありませんが、二頭政治ではなく、氏直が完全に実権を握っていたら、滅亡は免れたのかもしれませんね。

今回は北条氏5代を紹介していきました。
次回は周防国(現在の山口県)に一大勢力を築いた大内氏について話していきたいなと思います。

中国地方のお話になるので、三本の矢の逸話で有名なあの武将や、今回出てきた日本三大奇襲の一つでもある厳島の戦いも出てくるかもしれません!この記事を読んで面白い!と思ってくださいましたら次回の記事も読んでもらえると嬉しいです。

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